先祖の記憶

通常DNAと言うのは「生命の設計図」と言われていますね。遺伝子はあくまでもタンパク質の設計図にすぎないという見方が大半であるわけですが、ヒトの場合DNA中でタンパク質合成の設計にあずかる部分は全体の1.5%に過ぎないとも言われています。あとの大半は何に使われている設計図なのかわかりませんが、多くはジャンク(ガラクタ)DNAとも呼ばれています。現在の医学では判らないことをジャンクと呼んでしまうのはいささか乱暴な気もしますが…。一説によるとここには体遺伝子という言葉に対するように精神遺伝子というものもあるようですが、こういうことを言うと「非科学的だ」と叱られそうですね。「非科学的」ではありません。「未科学的」なだけです。(笑)

で、このDNAの設計図に対して、その設計図の実行に影響する(働きを左右する)調節機構の情報というものがあるようでして、こちらもDNAと同じように親から子へと遺伝するようなんです。つまり「親の記憶が子へと遺伝する」というわけです。(エピジェネティックな遺伝)(参考までにこんなページをご紹介「記憶は遺伝するか:福岡伸一」

「親の記憶」と言っても「いついつどこどこで何を食べたか」とか「だれだれとなになにをしたか」というような記憶ではありません。「こんな境遇に陥ると、〇〇の病気になるスイッチが入りやすくなる」という風な記憶です。例えば「狭いところに閉じ込められると、急に動悸がして、それが何度も続くと自律神経の乱れが著しくなり、狭心症になる」と言った具合にです。

両親から祖父祖母、曾祖父曾祖母、高祖父高祖母と遡れば、誰かそのスイッチを入れてしまった方がいるのかもしれません。そしてそれを脈々と継いできた流れというものがあって、「私は顔、体型は父親似だが、性格は母親似、そして母方の祖父方の曾祖父から、どうもその流れがありそう」なんて。同じ両親から生まれた兄弟であっても、その流れはまったく違ったものになるのは当然ですし、一卵性双生児でも、幼少期は同じような姿・形であったのが、DNAの実行に関わる環境がお互い変わってくるにつれて、瓜二つというわけではなくなってくるとか、ですね。

最近では核家族化が進んでしまって親戚一同が集まるなんて冠婚葬祭くらいしかないのが当たり前になってしまいましたが、ちょっと前の時代には「お前は死んだ曾爺ちゃんにそっくりで強情な奴だな」なんて、ちょっと口の悪い親戚のおじさんがいたり、「去年亡くなったお婆さんはどこどこから嫁に来て、若いころから気苦労が多かったのよ」なんて生きる家系図伝道師みたいなおばさんがいたりして、賑やかに話に花が咲いたもんです。

自分を中心にして両親から祖父祖母、曾祖父曾祖母、高祖父高祖母と数えていけば30名のご先祖様が居て、そのお一人でも欠ければ私は生まれて来なかった。そう思ってみると自分の存在が奇跡に思えてきます。自分のルーツを探る家系図を作ってみるのも案外面白いかもしれませんし、遺伝子のタスキリレーランナーとして子や孫にそれを伝える責任もありそうですね。


エピジェネティクスについてはまた色々と書きたいと思います。

(最後にこんな音楽を。音が出ますから要注意です。笑 「斎藤和義:遺伝」